命を救ったマラソンと立山横断夏山登山の思い出(S36.8有峰口~信濃大町)菜翁が旨さんのほほ~ぇむ健康ペ~ジのサイトマップへホームへ⇔「健康第一」へ⇔随想集へ はだしのアベベと並走…命を救ったマラソンと立山横断夏山登山の思い出 1960年といえば、ローマ・オリンピックに初出場で無名のエチオピアのマラソン選手・アベベが優勝した年である。 当時の毎日マラソンにはオリンピック・マラソンの優勝選手を招待するのが通例であった。 「第16回 毎日マラソン(大阪・浜寺公園発着-住之江町、岸和田折り返しコース)にはアベベも招待選手として招聘されて開催された。 当時、大阪陸上競技連盟の役員であった私の上司におねだりして、ほんの少しの距離をアベベと並んで走らせてもらったことがある。 当時はマラソンの中継はラジオだけで、まだテレビの中継が行われていなかったので、こんな無理なおねだりが可能であったのだろう。 記念に、と、その上司から前年の第15回 毎日マラソン兼第44回 日本選手権大会ローマ・オリンピック最終選考会(1960年5月15日13時スタート・大阪・住之江町スタート-毎日新聞大阪本社ゴール)の参加メダルまで頂いた。 私にとっては、優勝したときから一躍、世界の有名人となったアベベ選手とほんの僅かであるが、並走させてもらった記念の大切なメダルでなので、肌身離さずにもっていたら、こんなに磨り減ってしまった。 当時、勤めていた大阪市中央体育館内では、昭和36年1月16日に「体育医事相談所」が開設されていた。 アベベ選手や一緒に招待されたエチオピアのワミ・ビラツの両選手が、マラソンのあとでこの体育医事相談所で、スポーツ医学的見地からの検査・検診に協力してその後のスポーツ医・科学の発展に貢献してくれた。 彼らの体格を目の当たりにみて、そして触らせてもらったその足がまるでカモシカに優るとも劣らないスマートな足であることに一同、驚いた思い出がある。 医師の所見でも、『アベベ, ワミの両選手は長身で下肢殊に脛骨が長かつた』と述べられている通りである。 当時の大阪市中央体育館は、大阪城公園・大阪府警本部そしてNHK大阪放送局を鋏む馬場町交差点の南西側にあった。 初代館長は大阪学芸大学を退官された、上嶋芳武氏であった。 上嶋館長は大の民謡好きで、現地へ行って仕込まれた宮崎の民謡「正調 刈干切唄」でNHKのど自慢の近畿代表として全国大会にも出場された。 当時のNHKのど自慢はまだ、ラジオだけで放送されていた。 上嶋館長は、館内放送設備のマイクから、「DENON 700縦型ステレオテープデッキに録音して練習するために、電気技師として勤めていた菜翁が旨さんが不肖ながらお手伝いしていたので、全国大会に出場されたことは、自分のことのように嬉しかった想い出がある。 この大阪市中央体育館は、日本生命保険相互会社が大阪市に寄付した3億円を基に、大林組によって建てられたものである。 寄付の趣旨をふまえて、アマチュアスポーツの振興に寄与するためにその利用料は低く抑えられ、利用時間帯も午前・午後・夜間の三帯設けられ、夜間は勤めを終えた人々が利用しやすいように夜間も9時まで利用できるようになっていた。 現に、夜間は実業団バスケットリーグなどで、にぎわっていた。 また、利用料が安いので、大学や企業のバレーやバスケット、バドミントンなどの室内競技部の練習などにもよく利用されていた。 さらに、全日本や国際大会などでもよく利用されテレビ中継も行われていた。 かくいう、菜翁が旨さんもNHKラジオの全国放送番組に出演した事がある。 昭和35,6年ごろであった。 NHKといえば、当時は、「日本薄謝協会」と揶揄されていたほど、出演料が安いと言われていた。 そのNHKが、「愛宕山開局以来の大判振る舞い」といわれる、一問正解するごとに500円の賞金がもらえる「東西対抗勝ち抜きクイズ合戦」という聴取者参加の生放送番組を4月から始めるので、その番組のデモンストレーション番組を春分の日に放送したいので、出場してくれないか、と打診があった。 所謂、(番場町の)隣り(体育館職員)のよしみ、である。 と、いうことは、大阪市中央体育館はアマチュアスポーツの殿堂として誕生した施設であることから、アマチュアスポーツの大会の開催が多かったので、NHKのテレビ中継が比較的多かった。 勿論、民放テレビの生中継も沢山おこなわれていた。 当時のテレビ中継には、集団検診のレントゲン車のような大きなバス2台がかりであった。 一台は電源車、もう一台はテレビカメラの制御車である。 この制御車の屋根の上のパラポラアンテナと自分の放送局を結んで実況中継が行われるのである。 従って、途中に障害物があって放送局と直接結べないテレビ局などは、途中に中継アンテナを設けていたそうである。 衛星中継などは夢のまた夢の時代であった。 このテレビ中継のために、当時の体育館には、専用の電源盤の設備が設けられていたので、中継用の発電機車までは必要がなかった。 そんなこんなで、お隣さん同士の懇意な間柄であった。 東京のJOAK局と大阪のJOBK局それぞれのスタジオに控えている一般の視聴者が一人ずつ順番に対抗でアナウンサが読み上げるクイズに早く答えたほうが勝ち残り続けられる、というクイズ番組であった。 当時は、高卒・大卒の初任給が一万円前後のころである。 クイズに一問正解で500円は、たしかに大金であった。 喜んでオーケーして張り切った薄給の菜翁が旨さんに出された問題は「皇室で"おかべ"と呼ばれているのは、なんという食べ物のことでしょうか?」という、今でも忘れる事が出来ない問題であった。 これはなんともはや、東京有利な問題であった。 なんとなれば、昔の皇居の京都が近いとはいえ、今は、大阪には皇居がない。 あっけなく初戦敗退、賞金は大きなかべの向う側に行ってしまった。 甲子園で一回戦で惜敗してゆく高校球児の気持ちが分かるような気がしたひと時でした。 大阪市中央体育館の屋外テニスコート前にて職員有志と…(後ろの建物はNHK大阪中央放送局(馬場町)) ※ ※ ※ このころ、大阪市中央体育館内の「体育医事相談所」の担当医師であった大阪市立大学医学部の先生の呼びかけによる某製薬会社の治験に参加して、有峰口から入って信濃大町へ抜ける6泊7日(車中2泊)の立山連峰縦断登山に参加した。 治験であるから、費用が千円ポッキリと割安であっただけでなく、大阪市立大学医学部の外科医師や「体育医事相談所」の看護師の参加もあり、さらにガイドは第一次南極越冬隊に参加された、立山の名山岳ガイドの佐伯富男さん(南極1次越冬[1957年~1958]隊員11人の1人。1990年61歳で逝去)で、万全の体制のパーテイーであったので、本格的な登山が初めての菜翁が旨さんでも安心して参加できる登山であった。 このとき、汗取りとしてタオルの真ん中に頭を入れる穴をあけて、不要になったタオルの端を切り取った紐を取り付けた、男性でも簡単に縫製できる、汗取りと防寒を兼ねた格安・絶妙の登山用品である。 これは、今でもパジャマの下に着けて愛用している。 特に夏は気軽な汗取りとして大活躍している。 そういえば、2009年7月のトムラウシ山遭難事故の折にも、テレビで「タオル一枚のおかげで無事生還」された老婦人として、これが紹介されていたことを、ご記憶のかたもあるかと思います。 【生存者の証言:女性客G(64 歳) 「こんな天候の日に行くんか、と思ったが、ツアー登山では我がまま言ったらきりがない。 自分でセーブした。出発が30 分遅れたので、その間に温泉宿でもらったタオルに穴を開け(後ろを長くして)、被れるように細工した。フリースを着たかったが少し濡れていたので、その代用のつもりだった。そして、日本手ぬぐいを首に巻いて保温した。これらが命を救ってくれたかと思うと、帰ってからも、捨てるに捨てられなかった」】 【遭難原因としての低体温症はその頻度は多くはなく、ましてや、真夏の遭難の原因として考えにくいため、一般に登山者の認識は薄い。しかし、気象条件によっては真夏で低体温症になり、死亡するケースがあることをガイドおよび登山者は認識しておくべきである(トムラウシ山遭難事故調査報告書(平成22 年3 月1 日トムラウシ山遭難事故調査特別委員会)報告書より】 佐伯さんは、休憩中に雪渓の雪で冷やした缶ビールを手にして、「この一本が私の昼飯だ」と言って飲んでおられたことが今も強く印象に残っているのは、中年になってメタボになってしまった私にとっての警告だったのだろうか。 6泊7日(車中2泊)の立山縦断したときの登山コース(地形図は「国土地理院」発行の五万分の一高山6号「槍ヶ岳」にコースを書き込んでマップケースに入れて登山中は常時首にかけていた) JNR大阪駅~(JNR車中泊~富山地方鉄道)~有峰口~折立~太郎小屋(2372.9m)(泊)~薬師岳(2926m)登山~太郎小屋(2372.9m)(泊)~↑~北ノ俣岳(上ノ岳2661.2m)~↓~北俣乗越~↑~黒部五郎岳(中俣岳2839m)~↓~黒部乗越~↑~三俣蓮華岳2841.2m~三俣蓮華小屋(泊)~雲の平(祖父岳2821m)~三俣蓮華小屋(泊)~湯俣温泉(休憩)~信濃大町~(JNR車中泊)~JNR大阪駅 当時は太郎小屋~三俣蓮華小屋間には、約300m登り3か所、下り2か所の非常に厳しい一日コースであった。 特に最後の黒部乗越から三俣蓮華岳までの同じ日の3回目で最後の300mの登りは、コース最大の難関で、30名近くの大パーテイー全員がよくぞ乗り越えたものだ、と、今思い出しても感慨深いものがある。 疲れ果てた身体を引きずった30名近くのパーテイーが三俣蓮華小屋に到着したときには、小屋の中は満員で、とても私たちのパーテイー全員がが泊まれる余裕などなかった。 三俣蓮華小屋の主(あるじ)は、これだけの多人数を泊めるスペースの余裕がない、と言い張って、止めてくれそうになかった。 パーテイーの、内科医でもある責任者とけんか腰になったが、ガンとして、「この山小屋では俺が法律だ」とまで言い出す始末であったが、最後に、折れて、小屋の登山客に詰め合わせてもらって、ようやく泊まれることになった。 ようやく横になったころに、滑落したのか、足を骨折した登山客が小屋に運び込まれてきた。 山小屋のあるじは、簡単な応急処置を施して救助の連絡を始めようとしたが、私たちのパーテイーには、内科医・外科医・看護婦がそろっていたので、早速、医学的な適切な処置をして山小屋の主に後事を託すことができたのであった。 山小屋のあるじも、さぞかし、心強かったことであろう。 人は、いつ、どこで、どんなことで思いがけないことで、助け合わなければならないことがおこるやも知れないのであることを、悟らされた出来事であった。 そして、また、宿屋やホテルなどの旅人のための宿泊施設は、本来、訪れた客は必ず泊めなければならならない(満室の場合は相部屋とか代替施設の紹介をするなどしてでも・・・)いう義務があることを思い起こした出来ごとでもあった。
昭和36年北俣岳(2,661.2m)付近にて(1961.8.25) ※ ※ ※ 私は、小学・中学では、体育はまるでダメ人間であった。 中学では、毎年耐寒マラソンが行われ、私は往路の途中から歩き出して、いつもビリのほうであった。 高校の耐寒マラソンは往復10キロのコースであった。 このころになると、少しばかり体力がついてきたのか、兎に角、途中で歩かずに完走できるようになっていた。 折り返してもマイペースで走り続けていると、歩いている者を、一人、二人と追い越すことができた。 完走してみると、自分の思っていたより随分と上位の順位であった。 これが励みとなって、2年生、3年生になっても、遅いペースでも歩かずに完走する楽み、というより、追い越して完走するというマラソンの楽しみ方があることを覚えることが出来た。 ※ ※ ※ そういえば、小・中学生のころの体育の時間には、短時間の授業時間であることなどもあってか、瞬発力の必要な運動が多くて、マラソンなどの持久力の必要な授業はほとんど無かったように思える。 運動会なども、然りであった。 最近の小学生の体力テストにも、持久力の必要なものは含まれていないように思える。 私が小学生なら、今だもって「運動オンチ」なのであろうか? ※ ※ ※ 三十台後半の働き盛りのころのことである。 からだ全体がどことなくだるくてしんどい。 そんな日々の繰り返しがいつまでも続いた。 会社の産業医で診てもらっても、どこも悪いところが見つからない。 病院で丸一日かけて、午前中は胃を、午後にはお尻からバリウムを注入して大腸の検査などを受けたが、異常は発見されなかった。 それでもけだるさは続いていた。 かといって、点滴をうつほどでもないし・・・ 病院でも原因不明なら、自分で何とかするしかないかな、 とにかく、先ずは体力作りが肝要…と思って、ジョギングを始めた。 マラソンの面白さを覚えた高校時代の耐寒マラソンの事や、アベベと並んで走った毎日マラソンの事を思い出しながら・・・ 毎朝、体調を伺いながら少しづつ走る距離を伸ばしながら 一年ほど経ってからは、足の裏にはツボが集まっている事を知り アベベを見習って、毎朝はだしで走り、 休日にはNTTの中継所やテレビのUHF中継所がある近くの山の頂上までゆっくりでも、 止まらずに15分くらいかかって山道を走り登りをした。 石の上にも三年の例えではないけれども 三年ほど経ったころには、けだるさは何時の間にか、消えていた。 40歳に成った時、希望して「成人病検診」(現在の生活習慣病予防健診)を受けた。 半額自費で残りの半額は政府管掌の健康保険が負担してくれる制度を会社が導入してくれていたのである。 そして、会社は有給休暇とは別枠の有給の特別休暇として扱ってくれていた。 レントゲン検査、肛門触診、血液検査、超音波エコー検査、心電図検査、バリウム検査とその後の胃カメラ検査等による精密検査を受けた。 その結果は、 (1)高脂血症 (2)洞性徐脈(不整脈の一種) (3)高血圧症 (4)十二指腸潰瘍瑕疵 と、宣告された。 今、振り返ってみると、 (1)高脂血症は、天ぷら、フライなどの揚げ物や肉食が多く、 野菜を煮物などで、沢山摂らなかった食事が原因だったようである。 (2)洞性徐脈は、今ではスポーツマン・ハートとも言われているように、 多分、ジョギングを始めた初期のころ 15分ほど山道の走り登りをしていたことがあり、 そのことも多少影響していたかも知れない。 (その後、老年になってある手術のために、ホルター心電計をつけて24時間の心電図で調べてもらったところ、1分ほど脈が跳ぶことがあるのが分かり、手述には支障が出るほどではないが、将来車の運転中に失神する恐れも起こり得る、ということで、手術の快癒後に専門病院の循環器内科で精密検査をしたところ、ホルモンの分泌異常が原因ではあるが、特に治療を要するほどではない、ということであった。) (3)高血圧症は、高脂血症の原因となった食事や 晩酌のビールの飲みすぎや 一日に50本前後の喫煙や ジョギングを始める以前の運動不足などが原因で BMI指数が25~6と、肥満体になりかけていた事が原因していたようである。 (4)十二指腸潰瘍瑕疵は、残業を含めて長時間机に座って、胃や腸を圧迫していた事や 仕事のストレスや飲酒などが原因で十二指腸潰瘍が発症して、原因不明のけだるさが襲ったのを山登りなどの強引なジョギングで治ったのではないかと思われる。 幸いにも、今までどおり仕事を続けながら通院して薬物治療をうけることになった。 然しながら、症状に対する自覚が薄く 殆ど食事内容を改善しなかったせいで、 左足親指の第一関節が赤く腫れて 典型的な「通風」の症状が現れた。 慌てて、診察してもらうと、案の定、高尿酸血症と診断され これも薬物治療をすることになった。 幸いなことに、この頃から、病院内にこれらの症状に対する解説書や 食事に対する改善方法などのパンフレットが揃えられはじめた。 通院のたびに、それらのパンフレットを見つけては、 自分の病に対する知識を吸収し、 自分の病に対してよくない食べ物を摂らない様に そして、良いとされる食べ物を積極的に摂る様に つとめるようにし始めた。 ※ ※ ※ 肥満のほうは、1995年の阪神淡路大震災の年の正月からタバコをピッタリとやめ、晩酌の量を控える様になってから、64~5Kgあった体重が最近では51~2KgでBMI指数は20.2~3程度で推移する日々になっている。 時折、飲酒の量が過ぎることがあるが、そんなときには体重は1~2Kg簡単に増加している。 数日、晩酌を停止すると体重は元に戻っている。 飲酒による過食と塩分の摂り過ぎによる体重増加であることが、自分自身の人体実験(?)で判明した。 最近知ったことであるが、喫煙はタバコの発ガン物質が腎臓から膀胱に溜まって、高齢者は「膀胱ガン」に罹りやすい、という医師の話をテレビで聞いたことがある。 喫煙はさらに、腸でのカルシウムの吸収を阻害するようでもある。 ※ ※ ※ 42,3歳のころ、子供が小学5,6年生のころである。 父親参観のあとで、PTAのマラソン大会が行われたことがある。 マラソン、といっても片道500m、往復わずか1Kmである。 丁度真ん中、250mくらいのところで直角に曲がって、そこが小高くなっている。 血気盛んな父親ばかりであった。 私は、このころ、山登りジョギングこそやめていたが、まだ平地でジョギングを続けていたので、勇んで走ることもない、と、軽い気持でスタートして、後ろのほうからゆっくり走っていた。 折り返してからの復路の登りになると、私の前を走っていた人々は、みんなバテて歩くかスローペースになってしまっていた。 それじゃ、と本気で走ってみると、いやおうなしに大規模なゴボウ抜きをして、マラソンの面白さをまたまた味わってしまい、ゴールに向かう下りコースに入ったころには私の前には誰もいなくなってしまった。 私のゴボウ抜きを見ていたゴール付近のギャラリーの子供達の騒ぐ大声もしっかり耳に入るほど冷静に走り終えた。 その日を境に、わが子が運動オンチだった父親を尊敬してくれるようになったことがなによりも嬉しいことであった。 ※ ※ ※ 私の定年前に『早食いの印ちゃん』とも呼ばれていた同僚がいた。 彼の早食いは有名で、例えば、会社の食堂での昼食で、私が、ソバと冷や奴を二箸三箸食べたころには、もう、定食を食べ終えていたのだった。 どんぶり山盛りの卵かけごはんを瞬時に飲み込むような早さであった。 その彼が、休日に急性膵炎でとてつもない痛みをこらえて胸押えながら片手で車を運転して病院へ飛び込んで、命拾いしたことがあった。 さらにまた、定年退職直後に体調を崩した人を、時折みかける。 最後に勤めていた会社の社長が、引退後一年ほどで亡くなられた報に接したことがある。 さらにまた、身近な近隣にも定年退職直後に急に体重が減り始めて、人間ドック検診を受診したところ、手遅れの膵臓に腫瘍が発見されて、定年退職したその年の晩秋に亡くなった人の葬儀を隣保の一員として執り行ったことがある。 『物言わぬ膵臓』の怖さを二度も思い知らされたのである。 そういえば、私も、外科・内科全般のみならず肝臓・胆脳・膵臓の専門医でもある主治医での定期検診では、腫瘍マーカーや超音波での検診を行ってもらっているが、その折に、膵臓には超音波では見えないところがあるから、と云われて、その場所の検査のために大病院での造影剤を注射してMRI撮影して検査・診断してもらったことがある。 私は、複数の会社に勤めていたが、その一つの会社の昔の同僚に定年退職した翌日に体調を崩して救急車で緊急入院した人がいる。 彼は、幸いにして今は健康で奉仕活動などで活躍しているそうだ。 ※ ※ ※ 肺がんで片肺上葉を切除して退院に至らずに亡くなった人もいる。 手術後3年経過で今のところ元気な人もいる。 胃がんを手術して退院後、健康を取り戻した人も居る。 チューハイなどのアルコール度数の高い飲酒を長年に亘って続けた結果、咽頭がんの手術後、退院できずにそのまま亡くなった人も居る。 ※ ※ ※ がんの早期発見法としては 胃や大腸の内視鏡検査・超音波検査・胸部レントゲン・PSA・マンモグラフィーなどがあるそうだ。 勿論、血液検査も重要である。が、発見率は100%ではないので、そのことを心得ておく必要がある。 私も、日常の通院のなかでマンモグラフィー以外は一応全て検査を受けた事がある。 GOT,GPT,γ-GTPは当然として、CEA,PSA,CA19-9,UIBC,アミラーゼ、ALP、白血球像など… 医師から血液はサラサラだね、といわれた事がある。 動脈硬化の検査として、血液脈波検査(PWV,ABI)も受けたことがある。 ※ ※ ※ 私は、これらの検査結果を40歳で成人病検査を受けた時のものや、 かかりつけ医に早めに症状を訴えて検査してもらった結果を捨てずに保存して、 今ではパソコンに入力して管理している。 ※ ※ ※ がんの中でも5年生存率が際立って低いのがすい臓がんのようである。 次いで肝臓がんや胆嚢がんらしい。 聞くところによると、膵臓がんは肉や魚などの動物性の食べ物を絶って野菜中心の食事を摂りつづけると、 運がよければがんの進行が遅くなったり、止まったり、がんが小さくなったりすることがあるそうだ。 ※ ※ ※ 私も、勤めていた会社のパーテイなんかの席で、 外国の人から、皿のなかの和食が、肉や魚が入った料理か否かを尋ねられたことがしばしばあった。 ヴェジタリアン(菜食主義)も健康管理上では一理あると思っている 私も、このところ十数年は、すっかり野菜中心の食生活になりきっている。 毎朝、大便を観察すると、胃や十二指腸からの出血があるのかと心配するような黒みがかった便がでていた。 便の中に、色や大きさもひじきに似たものが混ざる事がある。 小腸や大腸のひだのなかに溜まっているカスだそうだ。 いまだに十数年前の肉食のカスが残っているのかな?と思っていたら、 最近では、子供の頃「キネンポ」と呼んでいたモノほどほど見事ではないが、黄金色に近い太い便と毎朝、対面できるようになった。 ※ ※ ※ ※ ※ ・昭和34年は大阪市制実施40周年の年であり、日本生命保険(株)も創業70周年であった。 そこで、日本生命では、市民の体位向上と福祉増進を願って、大阪市に体育館の建設費を 寄付することになり、昭和34年(1959)7月に「大阪市中央体育館」(馬場町交差点の南西角)が開館した。 ・地下1階・3階建てで2・3階は観覧席となり、夜間照明も完備されて、当時は東洋一の規模 と設備を誇るアマチュアスポーツの殿堂であった。 バレーボールや柔道・剣道などの競技大会場として利用され、日本対ソ連対抗バレー大会 も開催されている。なお、昭和61年の大相撲春場所がここで開催された。これは大阪府立 体育館が全館改修工事中であったため代替会場とされたものである。 初代館長は上嶋芳武氏であった。 ・老朽化もあり、また平成9年の”なみはや国体”を控えて新体育館建設が計画され、平成9 年3月、港区八幡屋公園に新しい「大阪市中央体育館」が完成した。 ・「大阪中央放送局」(大阪放送会館) ・大阪放送局(JOBK)は、大正14年(1925)2月に設立され、6月に三越屋上から仮放送を開始した。そして、昭和11年(1936)11月、馬場町(馬場町交差点東南)に大阪放送会館が完成している。 地上6階+塔屋3階・地下1階建て。塔屋38mを含め総高さは62m。 ・昭和29年には、大阪テレビ局の本放送が開始され、昭和35年からはカラーテレビ本放送が開始された。 テレビ放送が開始されると本館だけでは狭隘になったため、昭和32年4月,敷地東側にテレビ専用スタジオの「別館」が建設され、昭和38年4月には本館南側に地上4階・地下1階建ての「新館」が増築された。 なお、この新館の建設工事中に難波宮跡の発掘が行われている。 ・馬場町に所在したことから、コールサインである「JOBK」について、「ジャパン・オオサカ・バンバチョウ・カド」 の略であるというジョークが囁かれた。 ・昭和29年の「新警察法」の公布によってこれらの組織が一本化され、新たに各 都道府県警察として「大阪府警察本部」が発足し、昭和34年2月に本部庁舎が現在地 (馬場町交差点の北西角)に完成し移転してきた。 ・「大阪家庭裁判所」(旧庁舎) ・大阪家庭裁判所は、昭和24年1月に大阪地裁調停庁舎内(若松町)に開設され、昭和 30年3月に大手前之町の本町通り沿い・大阪府警本部西隣に地上2階・地下1階建ての 本庁舎が竣工し、昭和42年には5階建新館が北側に増設された。 ・現在は、平成10年2月に南側の大手前4丁目に新庁舎が竣工し移転している。 ・「大阪営林局」 ・現・NHK大阪放送会館の西側(現・大阪家庭裁判所)に大阪営林局があった。もとは「大林 区署」と呼ばれ、明治19年に設置されたが、大正13年12月に大阪営林局と改称され、昭 和34年11月に(大阪市中央体育館(当時)の西)庁舎が新築されて内久宝寺町から移転してきた。 現在は、「近畿中国森林管理局」と改組され、北区天満橋1丁目に移転している。 ・「国立病院・大阪医療センター」(もと「国立大阪病院」) 法円坂2丁目1-14 ・昭和20年9月、米軍の接収により河内長野市の陸軍幼年学校跡地に移転した「大阪第一 陸軍病院」が、同年12月に厚生省に移管されて「国立大阪病院」となり、22年4月、(大阪市中央体育館(当時)の南)現在地(法円坂町)へ移転してきた。 参考1:大阪市中央体育館体育医事相談所論文より抜粋 毎日マラソン・レース参加選手の運動医学的考察 大阪市大医学部第1内科 井関敏之 山田耕司 大谷 遷 大阪市中央体育館体育医事相談所 小田俊郎 中家道晴 住吉 薫 前田茂和 佐々木美雄 ローマオリソビツク・マ ラソソ・レースの優勝者エチオビアのアベベ選手の参加を得て行われた毎日マラソソ出場選手について, レース前後出来得る範囲で,運動医学的検査を実施した。 レース・コソデイシヨソぽ気温26℃ ,湿度77% , 雨上りの薄曇りであつた。 身体計測ではマラソソ選手は一般に身長 , 体重が低く, 比体重も小であるが,アベベ, ワミの両選手は長身で下肢殊に脛骨が長かつた。 (中略) 血液像: レース後16 時間目に採血を行つたがエチオピアのワミ選手の赤血球数は同時に出場した日木選手のそれより100 万多く,白結球数も6 例中5 例に1 万上の増加せるのを認めた, 之れは恐らくレ 一スの影響が尚残つているためと考えられる。 (以下略) 国立情報学研究所 (NII):(体力科學 11(1), 学 27, 1962-07-01 ) (CiNii(NII学術情報ナビゲータ[サイニィ])は、論文や図書・雑誌などの学術情報で検索できるデータベース・サービスです。) 収録刊行物:体力科學 [巻号一覧] 体力科學 11(1), 学 27, 1962-07-01 [この号の目次] 日本体力医学会 ※ ※ ※ ※ ※ 参考2:タイトル: 体育科教育の問題 著者: 重田, 為司 山法, 功一 上嶋, 芳武 村上, カオル 佐々木, 美雄 シゲタ, タメジ 刊行年月: 19551215 出版者: 大阪学芸大学教育研究所 掲載誌名: おおさか教育 参考3:タイトル:これからの小学校体育はどうあるべきか 著者: 本間, 茂雄 重田, 為司 山本, 功一 上嶋, 芳武 佐々木, ヒサ 佐々木, 美雄 青谷, 甚夫 鈴木, 武光 辻野, 昭 辻野, 利郎 井出, 実 有光, 徳夫 久喜, 吉和 能多, 律子 根本, 芳雄 刊行年月: 19580920 出版者: 大阪学芸大学教育研究所 掲載誌名: おおさか教育 豆腐パワーは優れもの 食が進まない時は 粥より豆腐 冷蔵で長期保存可能な森永絹ごしとうふ森永絹ごしとうふ290g1ケース... 価格:3,000円(税込、送料込) (1)疲れてお粥が欲しいときにも、粥より豆腐を・・・ (2)働きすぎた胃を癒すためには、粥より豆腐を・・・ (3)消化吸収率は、豆腐が94%、納豆ほぼ100%。効率も優れていますね。 (4)牛や豚の体温は人より高くて、牛が38.8℃、豚がは38℃… だから人の体内で固まって皮下脂肪や動脈硬化への近道…ですね。 これに対して、大豆に含まれている脂肪は人の体の中に入っても固まらないし、 その上コレステロールも殆どありません。 (5)食品成分表で比べてみると、 凍り豆腐のタンパク質は牛や豚の肉の二倍以上 凍り豆腐や油揚げの脂質は肉より多い。 ←冷蔵庫に長期間入れっ放しにしておくとよく冷えて一層おいしいですよ♪ ホームへ⇔「健康第一」へ |